対話に先立ちまして高野山真言宗のホームページをあらかた読ませていただきました その内容をどこまで憶えているかは甚だ心もとないのですが言葉の端々から高野山真言宗金剛峰寺としての表立った姿勢や考え方はそれなりに頭に入ったかと思います
ところでこの前いただいたメールで 私が真言密教の教義について突き詰めた話を求めるなら専門の大学教授の方にでも というのがございましたが 私は真言密教の教義について何も知りませんので突き詰めるも何も専門的な話は私にはできません それに私 こう申しては失礼ですが真言密教の教義に特に深い関心を持っているわけではありませんので (もちろん話をお伺いしているうちに深い関心を持つようになって調べ始める ということがないとは限りませんが) 私は自分の中の神様に興味を持ち 結果 宗教全般に興味を持っています それも過去の宗教よりも現代の宗教に 教義よりも実際的なところに関心を持っております 端的に言えば 真言宗を見たい 現実を知りたい 現実を見たい そういう思いでメールさせていただいております
さっそくですが話に入らせていただきます高野山真言宗のホームページを見ていてこの記事が眼に留まりました
密教と真言宗
そこには密教と顕教のこと 真言密教での修行のことなどが書かれてございますが中段最後の仏や菩薩に対する密教と顕教での捉え方の違いに目を惹かれました
『密教の仏や菩薩たちは、宇宙(法界)の真理そのもの(法)です。その「法」が身体的イメージとしてとらえられているのが仏や菩薩なのです。』
密教で言う仏や菩薩たちは人や形あるものをさしているのではなく 真理 真実そのものをさしている それを人の形のイメージとして捉えている という その視点は私の好みでもあり面白いなと思いました
インドの神様たちも似た構図から現れているかもしれません 私は宗教学者ではなくヒンドウに詳しいわけではありませんが 家人やバシスト村の人たちを見ていると彼らの神様もそういう風に捉えられていると感じます ビシュヌもシバもクリシュナも悟った人であるとかではなく神様(言葉を換えれば宇宙の法であるとか法界の真理等)が人物イメージとともに現れたと考えるほうが自然です ホームページの記事を契機に私は次のように考えましたヒマラヤの村の人たちは宗教心にとても篤い人たちなのですが にもかかわらず神様に対する依存 依頼がありません この点が日本にいて一般に感じる宗教の匂いともっとも違うところです ビシュヌやシバやクリシュナに御利益やご加護を願うような人は村人にも旅人にも一人もおりません 私もこちらにながくおりますが そういう発想事態が考えられない それをなぜかと考えればビシュヌやシバやクリシュナが神様の身体的イメージの投影であることを知っているからだろうと思います おそらくはそれと知らずにに知っている 無意識のうちに知っていると思われます 村人たちに神の御利益やご加護に関する言動がまったくないわけではありませんが その場合のそれはビシュヌやシバやクリシュナでなく山や自然に向かいます バシストにある温泉等がいうならば代表的な御利益という方向です だからなのかもしれません 村人たちは自然を大事にします その自然の向こうにあるものを宇宙の真理と考えれば 密教とヒンドウは少なくとも構図的には通じるところがあるのかもしれない そういう風に考えました
話が少し外れますが山林部の記事などを見て高野山真言宗が山や自然を大事にしていることを知りうれしく思います
ところで少し視点の違う話になりますがこの言葉は人によってまるで見えないかもしれないと思うのです
『密教の仏や菩薩たちは、宇宙(法界)の真理そのもの(法)です。その「法」が身体的イメージとしてとらえられているのが仏や菩薩なのです。』
「宇宙(法界)の真理そのもの(法)です」 という言葉だけを取り上げてみれば意味不明の言葉といわれても仕方ないと思います なにやら怪しげな宗教団体が使う言葉と変わらない もちろん皆様のその言葉は後に続く言葉とつないで考えることでその意味が見えてくる さらにその前の顕教の仏や菩薩たちのそれと比較することでもっとクリアにわかるわけですが でも人の中にはそれでも見えない人もいるだろうと思うのです なぜだか見えない 字は読めているだろうにそこに書かれていることの内容がわからない 見ても見えない聞いても聞えない そういう人たちが現実にいるかと思います
おそらくは大師様もそして皆様もそのことはご存知なのかもしれません だから修行していたのだろうかと思います 三摩地・さんまじと言うのですか (こちらにはサマディという言葉がありますがあるいは同じ言葉かもしれません) 瞑想ということについては 私自身は意識的に瞑想したことは一度もないのですが もし自分を見つめることを瞑想と考えてもいいのなら私はいつも瞑想していることになります そして私には実際的な疑問があります 伝えられるものでしょうか?見ても見えない聞いても聞えない人たちに伝えることができるでしょうか? 高野山真言宗の皆様には信徒に対してあるいは信徒でない人に対してでも 実際的なところでそういった手ごたえを実感することはおありでしょうか?
そしてこれは上の問いとも関連するのですが私は弘法大師空海の著した十住心論に興味がございまして もしよろしければ皆様の見解を教えていただきたいのですが
私は十住心論を読んだことがありません 見たこともありません ただその名前は聞いたことがありました wikipediaを見ると目次でしょうか 題目らしいのが並んでいました 人の心を10段階に分けているようですね 、私は読んでいないのでその内容はまるでわからないわけですが 人の心を分けているということは それも題目を見る限り地位や身分によるのでなく人の精神性で心を分けているということは 人の意識レベルが同じではないことを知っていたということでしょう そこまでなら私もわかります 私も自分の体験から人は同じではない 人の意識レベルには差があると思っています 私は十住心論を読んでいないので空海の分け方に同意できるかどうかはわかりませんが 細かいことは気にしません そんなことは特に気にしません 私が興味あるのは空海は人の意識レベルの違いを語ることで何をしたかったのだろう そしてそれを高野山真言宗の皆様がどのように受け止めているのだろう というところなのですがよろしければ十住心論についての見解をお聞かせください
密教と真言宗 の記事でもうひとつ私の目を惹いたところがありました 最後の部分です
『真言宗とは、仏と法界が衆生(しゅじょう)に加えている不可思議な力(加持力・かじりき)を前提とする修法を基本とし、それによって仏(本尊)の智慧をさとり、自分に功徳を積み、衆生を救済し幸せにすること(利他行・りたぎょう)を考える実践的な宗派と言えます。』
そこで最初に「不可思議な力(加持力・かじりき)を前提とする修法を基本とし」という言葉を見たときは意味がよく捉えられませんでした 何か魔術的なことでもしているのかと思ってしまいました 深く内容を追っていませんでした 加持力ってなんだ と戻ってみて 瞑想の中で仏と行者が一体となることと知り あらためて私なりに最後の部分を了承しました だから記事に対してケチをつけるところはありません
ただ「不可思議な力」という言葉から 高野山真言宗はいわゆる超常現象 神秘現象という類のものをどのように考えていらっしゃるんだろうか ちょっとおたずねしたくなりました 世間には高野山というとよく言えば神秘的悪く言えば魔術的なイメージがあるように思います 高野山真言宗のホームページの中にも記事は別ですが大師様の雨乞いの話がございました 高野山真言宗の皆様はいわゆる超常現象や神秘現象というものをどのようにお考えでしょうか 子供っぽい質問で申し訳ありませんが よろしければお聞かせください
以下は余談と聞いてくれてもかまわないのですが 私が生まれるずっと前に若死にしている母方の祖父は雑誌を作っておりました 「紀州公論」というのですが戦前のことなので親族の誰もその雑誌を持っていません ただ筑波大学と和歌山大学それに高野山大学などの図書館に蔵書として残っていると知り和大へいって実物を見たのです 祖父は執筆もしていて 記事の大半は祖父のものでした 固いというか くそ真面目な記事が並んでいるのですがそこにこういうのがありました
「高野山参拝でいざりが治った!」
じいちゃん だいじょうぶか
と 私は心配してしまうのです 個人が適当にほら吹いてる分にはいいのですが 小部数とはいえ雑誌です 不特定の人が見るメディアです 事実を伝えたのか 嘘言ってないんだろうな 心配になってしまいます 祖父の雑誌には高野山の門前で撮った写真などもありました きっと高野山に惹かれていたのでしょう 祖父の記事が嘘であったとしても悪意はなかったのだろうと思いますが どうなんだろう そんなことが本当にあるだろうか うちのじいちゃんの人格とともに気になっています これは私の個人的な部分も強いですが よろしければ過去にこのような事例もあったのかどうか教えていただければ幸いです
どうも失礼いたしました
2009年 1月 7日
山崎 一夫
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山崎一夫様
高野山も正月は雪景色の中迎えました。
といいましても、年々雪の量は減ってきているように思います。巷で地球温暖化が叫ばれて久しいですが、高野山においてもそういうことを肌で感じることになっているのかも知れません。
さて、長文拝読いたしました。
>密教とヒンドウは少なくとも構図的には通じるところがあるのかもしれない そういう風に考えました
歴史的な流れも含み、密教の構図は、多分にヒンドゥの影響を受けていると言える部分はあると思います。
三摩地は、サマディと同義です。日本の密教は、というより仏教は日本に伝わるまでに中国を経由しています。
西遊記のお話しでも有名ですが、インドからもたらされた教典(当時はパーリ語やサンスクリット語で記述されていたわけですが)中国でそれらをすべて中国語に翻訳していたわけです。その折り、音訳する場合と意訳する場合がありました。
三摩地は、つまりそういうことですね。そういった言葉は教典にいくつも見られます。
>見ても見えない聞いても聞えない人たちに伝えることができるでしょうか? 高野山真言宗の皆様には信徒に対してあるいは信徒でない人に対してでも 実際的なところでそういった手ごたえを実感することはおありでしょうか?
この部分に関しては、仏教の根本的なことに関わると思われます。いわゆる仏教の開祖である釈尊がどのようにさとりを人々に説いたかということなのです。教えを説くということには、様々な方法があることは想像できると思います。対機説法というのですが、それぞれの相手に応じてその相手に合った説き方があるということです。
>私は弘法大師空海の著した十住心論に興味がございまして もしよろしければ皆様の見解を教えていただきたいのですが
十住心論は、人間の心と仏様の心がどう違うのか、人間の心はどの位置にあって、そこからどういう心を得ることによって仏の心に近づいていけるのかということが説かれている ということになるでしょう。http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/jyujyushinnron.htmlけっこうよくまとめられているサイトです。参考にしてください。納得がいかないということであれば、前のお返事にも書かせていただきましたが、大学等にお問い合わせされる方が、山崎様の期待する回答を得られると思います。
>「高野山参拝でいざりが治った!」
>じいちゃん だいじょうぶか
山崎様の思われる意味合いは理解できます。でも、山崎様の祖父がそのように記述されているということは、そういうことなのでしょう。「ガンが治った」とか「歩けるようになった」いろいろな事例があることでしょう。全てが本当かどうかということは検証したわけではありませんから私からは何とも言えません。ただ、事実としてあったということなら、あったということです。
超常現象、神秘現象の質問とも関連しますが、拙宗でそれを否定するということも肯定するということも行ってはいないのが実情です。
確かに空海上人におかれましては、いくつもの山崎様が指摘されたように、いくつもの説話があるわけです。その事実はどうかということより、そういった説話が連綿と伝えられてきたということが、いわゆる「宗教」としての1つの意味合いを持っているということではないでしょうか。
空海上人は、病気に対しては適切な薬でもって治すことが必要とおっしゃっています。ただ、そこに加えて修法により法界の加持力を得てその病気が早く治るために祈願するということもおっしゃっています。それで、私たちは修法を行い、衆生救済を考えているわけです。
密教というと、その文字、響きからなにやら怪しげな誤解を受けることは確かにあります。
ただ、山崎様が興味をもたれた「密教の仏や菩薩たちは、宇宙(法界)の真理そのもの(法)です。」という教義と、『真言宗とは、仏と法界が衆生(しゅじょう)に加えている不可思議な力(加持力・かじりき)を前提とする修法を基本とし、それによって仏(本尊)の智慧をさとり、自分に功徳を積み、衆生を救済し幸せにすること(利他行・りたぎょう)を考える実践的な宗派と言えます。』という部分において意味するところを汲み取っていただければよろしいかと存じます。
金剛峯寺 総務課 中村光観
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